付箋史(仮)

断片でしかないけど、素人ながらの歴史絵本。知りたいとこにマークして百ヶ史(むかし)を歩く。

杉原 千畝

台風10号の影響があります。風、雨脚が激しくなってきています。



そして今日は8.15…終戦記念日です。
戦後74年経ちました。





今日はだからといって、終戦記念日であると意識して過ごしていたわけではありません。

台風の方が気になって風や雨の激しさを写真に収められないかな、と思ってフラフラしました

明日から仕事だから今日はフラフラしたかった





日中は風こそ吹けど台風は今一ピンと来なかったです。( 現在19時過ぎは雨風激しく台風がピンと来ています)




というのどかな木曽川です。可児市川合町にて

赤いトンボが飛んでいたり、信じられないが秋を意識したりしてしまいました。



フラフラとまた移動しました。

可児市から御嵩町八百津町(やおつ)へと入っていました。知らない町だと台風大丈夫かな?と気にしながら走っていたら、看板に杉原 千畝記念館があり、
そう言えばそうだったなぁ
と思い出しました。記念館には行った事がありませんでしたので、これも一つのキッカケと終戦記念日との一致もあり行く事にしました。
スマホのナビに従いながら、どんどん登り坂を登って行きました。

漸く記念館の近くになったようです。



モニュメントがありました。

杉原 千畝は第二次世界大戦時、リトアニアの外交官でした。
ナチスユダヤ人を強制収容所で迫害していました。アウシュビッツ等が有名な話です。
リトアニアの日本領事館に赴任していた時、ユダヤ人が日本まで国外退去できるビザの発行を求めて押し寄せてきました。

ヨーロッパから避難する手段はシベリア鉄道しかなく、その鉄道を利用する為には日本へ入国できるビザが無ければいけないとの事でした。

大日本帝国はビザの発行を認めなかったが、杉原は従わずにビザを発行し、ユダヤ人の退去に尽力しました。約6000人の命を救った事になるそうです。

ユダヤ人はシベリア鉄道に乗って最終的に福井県敦賀市に辿り着き、そこからアメリカ、オーストラリア等へ渡って行ったそうです。

記念館には生々しい資料や発行したビザ等が展示されていました。
撮影は出来ませんので、





貰ったパンフの写真です。


記念館の向かいには





終戦のこの日に赴く事ができたのはありがたい偶然でした。

帰って来て、台風の風の音を聞きながら少し本を読んでいます。
ある人達の戦争の話です。


平和を意識して保つ努力が必要なのかもしれないとボンヤリ思いました。

土岐から可児へ

一昨日に土岐の元屋敷窯跡へ訪問しました。



東海地方というのは本当に歴史が派手に展開しています。

どちらかと言うと私は明治維新か古代史、邪馬台国の方に興味が強かったです。
だから戦国、安土桃山の時代には疎かったし、左程の関心も無かったです。
こちらに住んで久しくなりますが、地名や記念碑とかも素通りしていたに近かったです。



それでもこうして文章を書こうと思い、話題を自分なりに模索しています。
自分の今後のイメージにも繋げられるようにとも思っています。

そうすると東海地方ならではの歴史や景勝地、文化や食、生活に全般的に知っておきたいし、その必要があるのかも知れないと思い、フラフラとどっかで何かないかなぁと思いながら、遊びながら楽しんで彷徨っています。

私が好きな小説家、詩人の木山捷平は仕事が無くて何時もフラフラしていたそうで、文筆仲間からお前は吟遊詩人では無く散歩詩人だなと揶揄されたそうです。

フラフラしながら何かを見に探している時、この話をよく思い出します。










それはさて置いて、
元屋敷から移動してのことです。


交差点のプレートに五斗蒔とあります。

この場所は美濃焼を支えた粘土の産出地です。
二枚目の薮の写真は五斗蒔土を販売していた工場の跡地です。

今では粘土の埋蔵量が無くなり廃業したとも、高齢化で後継ぎが居らず辞めたとも噂を聞きました。

著名な作家の方から一般の方までここで購入された人は沢山いたと思います。










そして更に移動しました。



ここは志野焼再興の話からは外すことはできない人の住居、工房跡です。今では資料館となって色々な作品や作業場等を公開しています。
と同時に牟田洞古窯群跡地でもあります。


分かりづらいかもしかも知れませんが谷の中です。谷合いを洞と言います。



昭和初期まで志野焼は瀬戸で作られていたと思われていましたが、この人がこの場所で志野焼で筍の絵のある陶片を発見し、瀬戸ではなく美濃で焼かれていた事が実証されました。

それが

この場所です。

この石碑には
随縁
と刻まれています。


この場所に居を構え、作陶も焼成もこの地で行いました。


窯場は非公開なので撮れませんが、

屋根が見えるくらいでした。





そして資料館へ向かう途中、

を歩いて行きます。
山の中の道にもかかわらず、葉が掃き清められている事に緊張感と何とも言えない深さを感じました。


脇に視線逸らしたら

瀬戸黒の破片がうず埋れていました。




ここへは何回も来たことがあります。
展示物が一変したりとはしませんが、また来ようと感じさせられます。
観に来るよりも感じに来るのがぴったりかも知れません。


また季節を変えて訪ねたいと思います。









超余談です。
今夜は昨日のキノコ料理の残りで

オジヤを作りました。
キノコの素朴な味がじんわりして120点でした。

元屋敷窯

岐阜県多治見市、土岐市可児市瑞浪市美濃焼の主要地です。

恵まれた原料が足元の地面にあるからです。

美濃焼として一躍花開いたのは、安土桃山時代です。

そこで今日は土岐市から可児市久々利方面へとあしを運んでみました。

土岐市にある元屋敷窯跡へ行きました。

ここには当時の登り窯跡とレプリカの穴窯の二種類があります。
緑の屋根の建屋が登り窯です。




窯の最後方からのもの。斜面を利用して温度が上昇しやすくなるようになっています。



焚口とそこから見上げた写真です。



窯の焼成室の様子です。丸い物が見えるのは匣鉢(さや)を置く土台です。匣鉢の事をこちらではエンゴロと言ってます。




こちらの窯は大窯とという穴窯です。
登り窯とは違い単室です。



よく例えられるのですが徳利を半分にしたよう形をしています。
焚口部と煙突、窯詰めの様子です。
内部に見える筒状の物ですが、これが匣鉢です。この中に物を入れます。
薪で焼くので灰がでます。美濃焼は灰を嫌うので灰が付かないようにする為、匣鉢という容器に入れて焼成します。

大窯では志野焼、瀬戸黒、黄瀬戸などが焼かれていました。
登り窯は織部焼等です。




最後にこの場所からの眺め、

見える街が土岐です。

小牧山城ーー織田 信長

昨日道に迷った事もあり、小牧だった。

小牧山

山の上に小牧山城がある。

この城は今では歴史館になっていて、城の形も当時の復元を意識した物ではないのだそうだ。

織田信長清洲城から拠点をこの城に移した。
信長の初めて築城した城。
ここから美濃への勢力拡大を展開していく足掛かりとした。
次に斉藤道三の城を改修し、岐阜城へ。
そして、京都が視野に入る安土城へと進む。


城といえば、石垣に天守閣の組み合わせで姫路城や熊本城などをイメージしてしまうが、



それまでの山城は石垣など無く、天守閣も無かった。土を盛った土塁と堀で囲みを作り、木造の建物で瓦も使用していなかった。

その裏付けとして小牧山城からは瓦の遺物が出土していない。


だけれど、信長はそれまでには無く、初めて石垣を持つ城を作った。



江戸城などの様に石垣を高く積み上げたのではない。三、四層の巨石を一段として、階段状の石垣を持つ城だった。

小牧山城以降に出来た城には石垣が組み込まれる様式となる。


ふーん、なるほどなぁ
と感心しながら、汗を吹き出しながら歩いていた。説明文やボランティアおじさんの話。




歴史館でもいろいろな説明があった。
小牧はやはり小牧長久手の戦いの主要な戦場でもある。

家康、信雄はこの城を拠点とし、秀吉は犬山市犬山城を陣取り睨み合う。
秀吉軍はこの状況打破する為、家康の国の岡崎を攻撃する事に決し一部の部隊を移動開始。それを知った家康は追撃し、長久手で決戦する事になる。





展望台へ。

(写真を乱れ撮りしてしまい、もしかしたら写真に間違いがあるかもしれません。)


北西の向き。うっすらと見える山が金華山岐阜城



西。
このカスミの向こうに関ケ原がある。
さらにその先に京都がある。


南東。
写真の中に広場にみたい写っているのが、名古屋空港で、その先の先方向に長久手があり、更に進んで岡崎がある。



北から北北東
御嶽山など槍ヶ岳も見えるらしい。
小牧での膠着状態中に秀吉が陣とした犬山城もこの向きある。


この展望台からの眺めは絶対に冬、空気の澄んだ季節にもう一度来よう。
山々は雪景色だ。

この展望台ではガイドのおじさんが方角の先にある街などを教えてくれた。
この360度が全て遠くまで臨め、広大な平野に囲まれている。
ここからの眼下、遥か先を信長、秀吉、少し遅れて家康も据えた眺め、三人の天下人が見た夢。
とそのガイドのおじさんが話してくれた。
こなれた感じの口調は落語のようで、リズム感もあった。それでいてわかりやすく、高揚させる言葉も散りばめる。噺家だ。
面白く、目に移る景色が違って見え英傑が乗り移ったような錯覚を覚えた。






これもおじさんに教えてもらった。
転落石とある。これはこの城の石垣の石が転げ落ちた石だそうだ。
こんな巨石がこんなにたくさん転がるはずが無い。

家康が豊臣を覆し、家康は名古屋城を築城した。
名古屋城の石垣の石を集めるときに、形の整った石がこの城から崩され運ばれ、使われた。
だから転落石はイビツな形の石ばかりだそうだ。



そんなに高くは無いこの山だけれど、あまりにも沢山の形跡があり、改めて訪ねたいと思った。

中津川ーー苗木城と廃仏毀釈

中津川市岐阜県と長野県の丁度境目にある。

苗木城は遠山氏が治めていた。

戦国時代、武田勝頼織田信長の勢力争いの境でもあったようだ。
信長の妹が遠山氏に嫁ぎ、生まれた女子は勝頼に嫁いだりというなかなかの綱渡りのバランスを強いられていたのかもしれない。


本能寺の変後、遠山氏は徳川に従う事にしたらしい。
秀吉の天下統一事業の際、命を受けた森長可によって苗木城は乗っ取られた。

色々と東濃の事を見ていると必ず森長可が登場してくる。足跡が線になって行くようだ。
その後、森氏の後に川尻氏が城主となった。

関ケ原の合戦後、徳川に従っていた遠山氏が返り咲き、明治に至るまで統治したとの事。

苗木の郷土資料館の説明を暗記してきた。




城山を下っていた時に見つけた物。

天目茶碗の陶片?
多分、この城の所有物に違いない。
世紀の発見をした!


写真で分かったと思うが、結構高い山に城がある。この高さにも


井戸がある。












そして、郷土資料館の説明の中に廃仏毀釈の事が触れられていた。
中津川は明治期にあったこの運動が徹底的に行われた土地だったらしい。
展示物にも首の折られた地蔵があった。
僕はびっくりした。
中津川の人は本当に穏やかで、何かを破壊する行為とは僕の中で結び付かなかったからだ。
何故、そこまで徹底したか?
資料館の職員にこれに関連した史跡はないですか?と尋ねた。

当時、その破壊から守られた地蔵等が祀られている場所があるとの事で地図で教えてもらった。


移動する事15分くらい。


そこには



などが生々しくあった。

この中には

地蔵様が隠される様に
守られていた。

賽銭を少し置いてきた。

無傷な地蔵の姿を見て
ホッとした。
中津川はこうでなきゃって安心できたから。



中津川、まだまだ知らない事が沢山ある。
童話もある。
半日では時間が足りない。

苗木城跡

この山に行く。
独特なこんもりとした形をしている。
中津川は花崗岩の採石が産業の一つになっている。よく見かける製品としては墓石や石像などに使われている。
ペグマタイトもあった。

白と黒と半透明の三色の細かい結晶からできている。
この花崗岩の巨石が地表に露出しているし、山肌そのものである。




巨石を活用している様として、




当時の城の様子は

という事らしい。



登りは急になってくる。
見える眺めも更に良くなる。

そして、木で組まれた展望台に到着。

赤い橋が見える。昨日の記事であげた写真はこの橋から撮影した物。

https://aojiiru.hatenablog.com/entry/2019/07/25/224245


残念だったのはこの雲の中に恵那山が隠れている。見えなかった。



中津川市をを一望できる。


そして足元の景色に目を向けると

日本のマチュピチュと例えられている。

天空の城苗木城。

桶狭間の戦い

今日は昼近くの午前中に面接を受けた。

かれこれ十何回と面接、履歴書郵送、見学、ゴマスリをやった事か。


今回もわからないが、結果待ちの状態があるのは精神安定の誤魔化しにはなる。


当然だが、ほぼ昼飯時に終わった。

一旦戻り、
朝、久しぶりの晴れなので、布団を干して出かけた。干し物を回収し着替えて再出発した。







晴れたら、どんな所なのかと気になっていた場所。

住んでいる街から、南へ40分位の場所にある。
中京競馬場の近くだ。

但し、桶狭間の戦場はここで確定ではなく、伝説であるらしい。その伝説に基づいての石碑等はここにある。


桶狭間の戦いは誰もが知っている出来事だ。
今川義元駿府から尾張へ進攻した。
今川軍兵力は25000。

それを地形を活かして少数の群勢での奇襲を仕掛けたのが、織田信長だ。
織田軍兵力3000。

実際に直接対決した兵力は今川軍5000、織田軍3000とも言われているようだ。



桶狭間古戦場跡は当時の雰囲気を醸す場所にあるのかなと思っていた。

が、街中で駅が近くだったり1号線沿いだったりと、便利な場所だった。
拍子抜けな一面がある。

史跡公園として整備してある。一周歩くのに5分位の広さだった。
義元がこの場所で討ち死したかは諸説あり、地形的な根拠が弱く違う地点ではないか等色々あるらしい。
だけれども、江戸時代位からこの地が決戦場所として祀られているようだ。
もしかすると、国道1号線は言い換えれば、東海道だ。江戸時代の観光地?
とは言え、この周辺のどこかは確実なのだと思っている。

この狭い公園内には





こちらは今川義元の仏式の墓石。


他にも義元の武将の碑もあった。



そして、供養塔などもあり、歴史は事実なんだと突きつける物もあった。





僕はここをブラブラ歩いていて、確かドラマや小説とかで地形は細長い窪地で、背後からの織田軍の奇襲を受けて敗れたと思い出した。


今、実際にその場にいるんだから、ここはどんな場所?と興味を覚えた。

思い出すと道中ここまで南下している時、何度か低い山だがアップダウンした道を通った気がした。




この場所から少し離れた場所に戦人塚がある。

ここは小高い山の上にあり、塚の周りは住宅街。この場所からは、よく見ると

特徴的な塔の下が、古戦場跡だ。

この高台から見ると、戦場跡が窪地である事がわかり、その陣が何をしているのかの様子を伺える場所が方々にありそうかも、、、と素人ながら考えてみた。







今川義元が散る直前に滞在した城

沓掛城。


ここも公園だが、土地の起伏や堀跡が当時を思わせる。