埴輪を作る
今日は久しぶりにこちらで作文する事にしてみます。
久しぶりに絡めてになりますが、3年振り位になるかもしれませんが、友人に会いました。
その方は現在、文化財の修復をされています。
ひと言に修復と言えども、使われている素材が様々なので、
例えば、石であったり、木であったり、漆喰、漆等等
また時代の違いによる技法の違いがあったりするので、歴史の専門家とも話をしたり自分で調べたりと凄い知識量です。
修復する為には現代の技術も使い実施しているとの事でした。
そう言った話しも沢山伺い、修復の拘りのプロさには尊敬さえ感じました。
で、今日はそう言う流れで埴輪を作りを教わりながら体験させてもらいました。
私も粘土を触って何やらを作っていますので、ある程度気楽に作れると思っていました。
でも、ただ好き勝手に作るのとは違って埴輪、正確には円筒形埴輪を作ること、形だけではなくて、作り方や手順、粘土の厚み等がすでに数値として決まっていて、それに合わせて作らなければならないのです。
そうともなると一気に難易度が上がりました。
高さが30センチ程とは言え、大変でした。
四苦八苦しながらですが、何とか形にしてきました。
歴史というのは遺跡や書物だけの学問ではなく、それを復元する事から分かる事が実に多いという事を少し体験できました。
兼山 1 金山城跡
久しぶりに兼山町へ行きました。
空がスカーンと抜けていたので見晴らしの良さを求めていました。
先日の小牧山城の展望台へ行けなかったのが、心残りで悔しかったのです。
金山城です。以前も行った所ではありますが。
違う季節の眺めも知りたかったのです。
https://aojiiru.hatenablog.com/entry/2019/07/04/224536
方角は西で琵琶湖や関ヶ原方面だと思います。
これが冬の展望でした。
最後の写真の雪山はどこからでも見えるイメージのある御嶽山です。
こうやって写真を撮りながら、広くはないこの天辺を歩いていたら、目が合いました。
エェッ!
ビックリしました。
ニホンカモシカだそうです。
野生だそうです。
ロケーションもバッチリなので、もののけ姫のシシガミ様みたいな写真が撮れないかと移動してシャッターチャンスを狙いましたが、どうしても僕の足音がしてしまい、鹿に気付かれてしまいます。
孤高で横顔の写真を撮りたかったのですが、
どうしても見つめ合う写真しか撮れなかったです。
南無阿弥絶仏
今日も怠けてしまいました。
青空と日差しがちょうどよくて、ふらつきたいなぁという衝動が発生してしまいました。
朝飯抜きなので、たまには五平餅でも食いたいなぁとも思いました。
結果は食べなかったのですけれど、。
ググッてみるとどうやら中部地方の食べ物みたいだから、今後食べ比べてみたいなぁとも思いました。
私は当てなくフラついているとどうも可児方面へ向かってしまう傾向があるようです。
昨日は御嵩町へ行き、今日は森蘭丸の故郷の兼山町へ来てしまいました。
御嵩町と兼山町は隣に位置しています。車で15分位の距離感ですね。
https://aojiiru.hatenablog.com/entry/2019/07/04/224536
そして兼山町には可児市戦国山城ミュージアムがありますので、そこへ行こうと定めました。
隣町の資料館だから、もしかしたら昨日の隠れキリシタンの遺物とか何かがあるかもしれないと若干期待したからです。
けれど森一族や金山城の瓦や茶器の陶片や鎧等がメインに展示されていました。
森蘭丸の兜のレプリカの写真があったりしました。
今日は文化の日の流れの連休に因みに入館料が無料なのとサービスに森蘭丸の鎧の絵葉書もくれました。
それを見た瞬間に息を飲みました。
蘭丸の兜には
拡大してみると
でした。
昨日の隠れキリシタン遺物の写真の一つに
南無阿弥絶仏、よく似ている、と思ったからです。
蘭丸の在命時は、キリスト教は認められていたので問題は無いのですが、ちょっとググッてみても森蘭丸の信仰はわかりませんでした。
可児市にある墓は臨済宗の寺にあるみたいです。(調べが甘く、今日行けたのに知らなかったです)
京都にある墓は浄土宗の寺のようです。
何だかミステリーみたいな感覚になり、ちょっとワクワクしています。
訂正。
調べてみました。森蘭丸 兜で検索すると、
南無阿弥陀仏って書いてあるみたいです。字体が草書なので、陀 という文字が 絶 の文字によく似ています。それを私が読めずに勘違いしていたようでした。
御嵩町のマリア像
御嵩町は可児市と思っていましたが、可児郡なのだそうです。
御嵩町と言ってもピンと来ないかもしれませんが、中山道の御嶽宿のあった場所です。
私も上手く説明できないので、
この図で確認して貰えたら何とかわかるかと思います。
以前も御嵩町を訪ね、触れてみました。
https://aojiiru.hatenablog.com/entry/2019/09/07/225301
その郷土資料館でこの里には隠れ切支丹がいた事を知ってとてもビックリしました。
隠れ切支丹と言えば、長崎県のイメージしかありませんでした。
以前のブログにも遺物の写真を載せました。
同町内の山奥の方には記念碑的にマリア像があるらしいので、探して見ました。
この隠れキリシタンの里から発見された物には
等があるそうです。
写真左下には南無阿弥絶仏と刻まれている塔があります。
信長によりキリスト教が許され、宣教師等も来たりした事があったり、信長の家臣も改宗したりし、民衆もキリシタンになった歴史があるそうです。
それが秀吉により禁教令が発せられ処罰の対象となり、江戸時代も同様の扱いでした。
この辺りをふらついて不思議に思ったのは今の子孫の方々はその信仰をしているのかなぁという事でしたし、当時は教会的な信仰の集いのような事があったならどのように為されていたのだろうか、更に宣教師がいない環境の中で、
キリシタン達の教義はキリスト教の教えと同じ物だったのかとかはとても知りたいと思いました。聖書は隠されていたのだろうか?
長い間、密かに信仰されてきたキリスト教、日本のどの辺りに迄隠れキリシタンは存在していたのか?長野県には隠れキリシタンは存在していたみたいです。
各地での隠れキリシタンの信仰には独自の解釈というか形に変化して行ったのでは?とか共通点はキリストという一神教、十字架、聖母マリアだったのでは?とか妄想ですが、知りたい事が次々に思い浮かんで来たりしました。
子孫の方に話を聞いてみたいなぁと思いました。